#0 光と影の中で / #1 あー夏休み / #2 離したくはない / #3 揺れる想い / #4 謎 / #5 最終章〜あとがき
音楽制作会社は1990年にTUBEそしてB'zさらにB.B.Queensがヒットとなったことで大きな変化の時を迎えた。
1986年にデビューしたTUBEは作家の提供を受けながら『シーズン・イン・ザ・サン』などのスマッシュ・ヒットを出していた。
メンバーオリジナル曲のシングルは1989年の9thシングル『SUMMER CITY』が初めてで10thシングル『Stories』と続く。
オリジナル曲でプロジェクトを進めるようになっていった。
1990年のアルバム制作のチェックにプロデューサー長戸大幸氏が訪れた時のこと。
シングル用にメンバーが作ってきた曲に耳を傾ける長戸氏だったが、納得できるものではなかったようでダメ出しされてしまう。
長戸氏はギターを手にすると『おまえらこんな曲はどうた?』と弾いてみせた。
ロックをやりたかったメンバーにとっては余りのダサさに何とも言えない気持ちになったそうだが、指示に沿った曲を制作した。それが『あー夏休み』の原型になる『Oh Summer Holiday』である。
『織田と亜蘭の真似事をしても勝てない』
『前田にはオーサマーホリデイなんてカッコつけても似合わない!』
ダメ出しのすえ、歌詞の書き替えを経て完成した『あー夏休み』だが、ヴォーカル前田亘輝、ギター春畑道哉の共作だった。
ところが二人ともが作家クレジットを辞退しようとしたというほどに納得できない曲になったという。そんな『あー夏休み』の出来にプロデューサー長戸大幸氏は『これだよ!これ!シングルにしよう!』と満足げ。
メンバーやCBS・ソニー側の反対を押し切ってシングルに決定した。そしてハッピを着てテレビに出演するように付け加えたという。
『あー夏休み』はそのインパクトと意外性がウケてメンバーのオリジナル曲で最初のヒットとなり、以降セールスが急上昇してゆく。
遊びゴコロやアンチテーゼを身につけた前田亘輝の歌詞の作風が大きく変化した。
それからは『夏だね』『さよならイエスタデイ』など大ヒット曲を連発する。
B'zは、浜田麻里さんやTM NETWORKのバックミュージシャンをしていたプロのギタリスト松本孝弘(たっく まつもと)とビーイングの音楽教室でヴォーカルを学んでいた稲葉浩志によるロック・ユニットである。
二人は長戸大幸氏の紹介で引き合わされ、セッションを経てユニット結成となった。(TAK氏はバンドだと言っている)
1990年に発売したシングル『BE THERE』『太陽のKomachi Angel』で注目されると、『Easy Come, Easy Go』『愛しい人よGood Night...』と立て続けにヒットさせブレイク。
4thアルバム『RISKY』でチャート1位、ミリオン!翌年の『LADY NAVIGATION』で早くもシングルでもミリオン・セラーを達成する。
B.B.Queensはブルーズ・シンガー近藤房之助、スタジオミュージシャンとしてキャリアが豊富な坪倉唯子に加え、栗林誠一郎、望月衛介、増崎孝司など実力派を揃えた。
コミカルなルックスの素顔は本格派ミュージシャンというアンチテーゼを駆使した展開だった。
ちびまる子ちゃんの『おどるポンポコリン』のミリオンに続き、長戸氏自ら作詞を手掛けた『ギンギラパラダイス』も50万枚クラスのヒットになる。
長戸氏がその才能に惚れ込み、組むことを決意した織田哲郎はTUBEや近藤真彦など他人に提供したものはヒットしていたが、自身のヒット曲には恵まれなかった。
実はこの年、織田哲郎は学研のレーベルであったプラッツというところからビーイング原盤でアルバム『いつかすべての閉ざされた扉が開かれる日まで』を発表している。この作品の先行シングルとして発売したシングルは『光と影の中で』で、長戸大幸氏が気に入っている織田哲郎の曲である。
長戸氏は織田哲郎自身にも看板になるヒット曲が欲しいとタイアップの調整に駆け回っていたという。
TUBE、B'zがヒットしB.B.Queensもヒット。
まさにビーイングはブームに向けて動き始めていた。
翌年には初の自社レコード会社としてビージン(のちのZAIN RECORDS)を設立。
またポリドール(現在のユニバーサルミュージック)に専門レーベルビーグラム(のちのB-Gram RECORDS)を設立している。
ビーイングにいた中島正雄氏の発言から読み解くと、ビーイングが原盤制作したものをレコード会社に貸して発売していたという事らしい。ビーイングにとってのメリットは全ての権利が自分たちのものになること、レコード会社のメリットは制作費が抑えられるということなのだろう。
のちに東芝EMIや日本コロムビアにも作品を供給しているが、ビーイングが設立したレコード会社に移籍する時にスムーズに全タイトルが移管するのは原盤をビーイングが持っているからに他ならない。
大黒摩季やWANDSは東芝EMIから発売した作品をそのままB-Gramに持っていってすべて再発売している。
これはYAMAHAが中島みゆきさんやチャゲアスでやっている。
次回はビーイングブーム全盛期のお話をします。
音楽制作会社は1990年にTUBEそしてB'zさらにB.B.Queensがヒットとなったことで大きな変化の時を迎えた。
1986年にデビューしたTUBEは作家の提供を受けながら『シーズン・イン・ザ・サン』などのスマッシュ・ヒットを出していた。
メンバーオリジナル曲のシングルは1989年の9thシングル『SUMMER CITY』が初めてで10thシングル『Stories』と続く。
オリジナル曲でプロジェクトを進めるようになっていった。
1990年のアルバム制作のチェックにプロデューサー長戸大幸氏が訪れた時のこと。
シングル用にメンバーが作ってきた曲に耳を傾ける長戸氏だったが、納得できるものではなかったようでダメ出しされてしまう。
長戸氏はギターを手にすると『おまえらこんな曲はどうた?』と弾いてみせた。
ロックをやりたかったメンバーにとっては余りのダサさに何とも言えない気持ちになったそうだが、指示に沿った曲を制作した。それが『あー夏休み』の原型になる『Oh Summer Holiday』である。
『織田と亜蘭の真似事をしても勝てない』
『前田にはオーサマーホリデイなんてカッコつけても似合わない!』
ダメ出しのすえ、歌詞の書き替えを経て完成した『あー夏休み』だが、ヴォーカル前田亘輝、ギター春畑道哉の共作だった。
ところが二人ともが作家クレジットを辞退しようとしたというほどに納得できない曲になったという。そんな『あー夏休み』の出来にプロデューサー長戸大幸氏は『これだよ!これ!シングルにしよう!』と満足げ。
メンバーやCBS・ソニー側の反対を押し切ってシングルに決定した。そしてハッピを着てテレビに出演するように付け加えたという。
『あー夏休み』はそのインパクトと意外性がウケてメンバーのオリジナル曲で最初のヒットとなり、以降セールスが急上昇してゆく。
遊びゴコロやアンチテーゼを身につけた前田亘輝の歌詞の作風が大きく変化した。
それからは『夏だね』『さよならイエスタデイ』など大ヒット曲を連発する。
B'zは、浜田麻里さんやTM NETWORKのバックミュージシャンをしていたプロのギタリスト松本孝弘(たっく まつもと)とビーイングの音楽教室でヴォーカルを学んでいた稲葉浩志によるロック・ユニットである。
二人は長戸大幸氏の紹介で引き合わされ、セッションを経てユニット結成となった。(TAK氏はバンドだと言っている)
1990年に発売したシングル『BE THERE』『太陽のKomachi Angel』で注目されると、『Easy Come, Easy Go』『愛しい人よGood Night...』と立て続けにヒットさせブレイク。
4thアルバム『RISKY』でチャート1位、ミリオン!翌年の『LADY NAVIGATION』で早くもシングルでもミリオン・セラーを達成する。
B.B.Queensはブルーズ・シンガー近藤房之助、スタジオミュージシャンとしてキャリアが豊富な坪倉唯子に加え、栗林誠一郎、望月衛介、増崎孝司など実力派を揃えた。
コミカルなルックスの素顔は本格派ミュージシャンというアンチテーゼを駆使した展開だった。
ちびまる子ちゃんの『おどるポンポコリン』のミリオンに続き、長戸氏自ら作詞を手掛けた『ギンギラパラダイス』も50万枚クラスのヒットになる。
長戸氏がその才能に惚れ込み、組むことを決意した織田哲郎はTUBEや近藤真彦など他人に提供したものはヒットしていたが、自身のヒット曲には恵まれなかった。
実はこの年、織田哲郎は学研のレーベルであったプラッツというところからビーイング原盤でアルバム『いつかすべての閉ざされた扉が開かれる日まで』を発表している。この作品の先行シングルとして発売したシングルは『光と影の中で』で、長戸大幸氏が気に入っている織田哲郎の曲である。
長戸氏は織田哲郎自身にも看板になるヒット曲が欲しいとタイアップの調整に駆け回っていたという。
TUBE、B'zがヒットしB.B.Queensもヒット。
まさにビーイングはブームに向けて動き始めていた。
翌年には初の自社レコード会社としてビージン(のちのZAIN RECORDS)を設立。
またポリドール(現在のユニバーサルミュージック)に専門レーベルビーグラム(のちのB-Gram RECORDS)を設立している。
ビーイングにいた中島正雄氏の発言から読み解くと、ビーイングが原盤制作したものをレコード会社に貸して発売していたという事らしい。ビーイングにとってのメリットは全ての権利が自分たちのものになること、レコード会社のメリットは制作費が抑えられるということなのだろう。
のちに東芝EMIや日本コロムビアにも作品を供給しているが、ビーイングが設立したレコード会社に移籍する時にスムーズに全タイトルが移管するのは原盤をビーイングが持っているからに他ならない。
大黒摩季やWANDSは東芝EMIから発売した作品をそのままB-Gramに持っていってすべて再発売している。
これはYAMAHAが中島みゆきさんやチャゲアスでやっている。
次回はビーイングブーム全盛期のお話をします。