紅雀は夢見るだろう - 第1回 - 第2回 - 第3回

かつて『女・陽水』(井上陽水)と呼ばれ、大きな注目を集めたという女性シンガーソングライター荒井由実さん。現在の松任谷由実その人である。

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臆病が 籠の中閉じこめてた
もう一度 飛ばせてほしいの


松任谷由実としての最初のアルバム『紅雀(べにすずめ)』が発表されたのは1978年のこと。
上記はタイトル曲『紅雀』のフレーズで、昨年開催されたデビュー50周年を記念した全国主要都市をまわるアリーナツアーでも歌ってくれていました。

今月、古希を迎え70歳となったユーミン。
とどまることのないパワーでオーディエンスを楽しませてくれるスーパー・ウーマン。
今回のエッセイはズバリ松任谷由実さんについて書かせていただきます。

まずは僕と由実さんの音楽との出逢いから。
正直なところ私が由実さんの音楽と出逢った地点というのは自分ではよくわからないんですよ。
というのも物心ついたときに『卒業写真』はスタンダードナンバーになっていたし、幼心に『大御所のおばさん』って印象は持っていたから。
母親のカーステレオで流れる『Delight Slight Light KISS』は、たまたま流れていたとはいえそこから聴き始めたということでもない。
前にも書いたかも知れないが音楽番組でアイドルをかじり、ドラマ主題歌やヒット曲を聴いていた時期は小学生であった。
小学生活終わりからFMのランキング番組を聴いているうちに自分の意思で求めて聴くようになっていった。そのとき、大江千里・渡辺美里・TM NETWORK・浜田麻里・レベッカ(ベストアルバム)と聴いている。
そのときでも売れまくっていた由実さんには見向きもせずLINDBERGとかドリカムにいったからね。
中学生あたりはビーイング、小室ファミリーに夢中だったから、この時期も由実さんのアルバムには手を出していません。
『真夏の夜の夢』と『春よ、来い』のシングルはリアルタイムで購入していますが、特別ファンだったということもなく、相変わらず『大御所のおばさん』としか思ってなかったですよね。

ではきっかけは何だったかというと高校の頃ですね。なにげなく聴いていたFM番組の『サウンドアドベンチャー』を欠かさず聴くようになったことが大きなきっかけかな。
もうその頃には自分が女性に興味がないことは気付いていたし、雑誌を郵便局留めで取り寄せたりしていたからそこに迷いはなかったんだけど、後々のことを考えるとあの田舎町で生きてゆくなんてどう考えても無理だった。
ゲイの人が都会に出るのは決して地元が嫌いだからではないんじゃないかな。もはや回避行動なんだと思う。
田舎は好きでも我慢して窒息しながら生き方を矯正したところで自分自身は幸せにはなれない。都会の人並みに紛れて同じ想いを共有できる人達と出逢うために離れる。
だから進路のことでは悩むことも多く、とりあえず東京に行くことを念頭に置いた不本意なものとなりました。ゲイじゃなければ悩まなくていいようなことじゃないですか。
そこは余計な苦労があったなと思っています。

『サウンドアドベンチャー』にリスナーから寄せられた投書を読みあげて由実さんなりのお言葉があって曲をかけるという番組。
時々お仲間のハガキが読まれて、自分のことではないのにドキっとして聴き入ってしまうなんてこともありました。
その由実さんのお言葉が印象に残るんですよ。当時からゲイとかそういうのを特別視せず受け入れた上で話をしてくれるところが好きでした。
もともと売上のあるアーティストですから、必然的にゲイのファンも多くなったんでしょうけど、決して媚びてるわけではないんですよ。
拒否せず認めてくれていたのかなと思います。

本格的に作品を辿るようになったのは上京してからです。TSUTAYAでアルバムを借りてMDに入れてゆくと作業をしつつ聴いていました。
ポータブルのMDウォークマンが大活躍でした。壊れるまで使いましたよ。
誰でも人生で一度くらいは音楽を辿る旅をすると思います。
僕にはそれが松任谷由実さんでした。
『VOYAGER』『REINCARNATION』『PEARL PIERCE』あたりを早めに聴いたので驚きや興奮が、より強かったのかも知れません。
そこからは『時のないホテル』『悲しいほどお天気』『流線形'80』『NO SIDE』『ダイアモンドダストが消えぬまに』と深みにはまっていきました。
旧譜のリ・マスター再発売をきっかけに少しずつ集め始めましたが途中脱落。結局TSUTAYAでボックスをレンタルしてCD-Rに焼いちゃったな。
リ・マスター版も20年以上経過してしまったから改めて出してほしいような気もするけど。

相模原から都内に戻り一人暮らしを再開してから生活が変わりました。
相模原での半年は引きこもりのように人に会わない暮らしでした。同居人にために食事を作り部屋の掃除をしたりする日々。
同居人がmixiで知り合った男性を拾って住ませるようになってから少しずつ息苦しくなっていきました。
早くここを去りたいという想いは日増しに強くなっていき、家に戻らず相模大野のアプレシオにナイトパックで入るなんてことも増えました。
同居人が連れてきた男性は働かない人だったのでいつも部屋にいるので朝方戻ってもいるんですけどね。だから同居人は仕事に出かけていてもその男性はいるので一人になることができなくなりました。
別の部屋にいても気配を感じるし、全く話をしてこない人でしたから不気味さもありました。

今思えば同居人の相方というより同居人本人に対する不満や抵抗もあったかも知れません。もう昔のことですけどね。あの屈辱感は忘れられないかも。

同居人本人も同居する時の言葉を忘れたのか、出て行かせようという圧をかけてくるようになりました。でも僕はこの時この人とした約束は反故にすると決めたのです。
顔も見たくなかったから親父さんに借りたり自分で少し貯めたものを元手に部屋を見つけ東京で暮らし始めたのは2005年頃だったか。

決してラクな始まりではなかったけど、一人の気楽さや2丁目が近くなったこともあって本来のゲイライフが送れてそれなりに楽しかったよ。
やっぱり飲み屋通いの復活が一番大きかったな。
お店のバーベキューとか花見とかイベントがあると声をかけてくれるマスターがいました。
ふたまわり上でユーミンファン。荒井由実時代からリアルタイムで見ている僕より全然古いユーミンファンです。
ユーミンのライブや苗場に誘ってくれたのはその人でした。本当に感謝しています。
彼が当時交際していたのがこのブログに時々出てくる『先生』という方。
『先生』は歳上の人が好きなんですよ。僕と『先生』は7歳違いであちらが上です。お察しの通り彼はゲイの世界でいう『老け専』というカテゴリーにいます。
『老け専』といってもおじいちゃんが好きというわけではないみたいです。彼が30代の時に50代くらいの人を好きだったけど、彼自身が50代になったからといって70代が好きなのか?といえばそうではないような気がしますよね。

昔、『先生』から大学の教授を好きになったという恋バナを聞いたことがあります。詳しくは聞きませんでしたが、一瞬せつない表情をしていたので障害のある恋だったのかも知れません。
このとき『先生』に紐つけた曲は橘いずみの『太陽』あの曲せつないじゃない。
『先生』はどんな人とも自然にお話しできて愛想が良いから僕とは正反対。僕は嫌いな人とはなるべく話したくないし愛想良くなんてできないもの。
『先生』とは、たまたま音楽の趣味が被る部分があったこともあり、お話をしたり、ライブに行ったり交流させていただきました。どれも憶えているけど飲み屋つながりで知り合った『パパ』含めて出かけた渡辺美里の河口湖は特に憶えてるかな。
野外で最後尾の気軽さもあって思い切り楽しめたんだよね。またみんなで出掛けられたらいいな。

ゲイではなく普通に生活していたらマスターにも先生にも出会う事はなかったでしょう。
飲み屋には色々な人が集まります。飲み屋を通じて知り合った人が霞ヶ関の官僚だったこともありました。あの人に会ってなかったら合同庁舎に行くこともなかったでしょう。

例えばユーミンを聴いていても、それまではライブに足を運ぶことまではなかったのだから、人との出逢いやきっかけが人生の出来事を変えてゆくのは確かだと思います。
ユーミンの曲で『フォーカス』というのがあります。これは恋愛について歌ったものだけど、人との出逢いが変えてくれるものがあることを教えてくれます。

マスターが亡くなってから数年はよく思い出していたし、自分自身のこととかでも苦しい時期もあったから余計につらかったけど、このごろは気持ちの整理もできました。
できればお墓参りに行きたいですけどね。

『先生』にとってはマスターは元恋人でもあるけど、『この世界』を教えてくれた人でもあったんじゃないかな。
だから『先生』もこの方との出逢いが人生に少なからず影響を与えているのではないかなと思います。

全ての根底には松任谷由実というアーティストの音楽があり、縁(えにし)を繋いでくれたのです。

次回はユーミンのアルバムについて書く予定ですが、ちょっと時間をください。