エッセイ:僕の見た小室哲哉
プロローグ|第一章 |第二章|第三章|エピローグ
プロローグ 〜 失 わ れ た 風 景 〜
今後、三回に渡って不定期でエントリーしてゆくエッセイ『僕の見た小室哲哉』
前書きは本項を補足する意味もあります。
小室哲哉について
昭和33年(1958年)11月27日生まれ、東京都府中市出身。血液型O型。
3歳の頃からヴァイオリンに親しみ、クラシック音楽の素養を身につけた。
母親の影響でエレクトーンに触れて音楽家としての才能を開花させる。
中学、高校時代には既にオリジナル楽曲を作曲していた。
高校時代に接点があった宇都宮隆、木根尚登らとTM NETWORKを結成する。
B'zのTAK MATSUMOTOこと松本孝弘氏はインタビューにおいて『B'zの最初の頃はTMの影響を受けている』と答えており、『あの頃は(グルーヴとロックの融合)は他にやっている人はいなかった』とまで語っている。
短絡的に『B'zはTMのパクリだった』で片付けようとする者がいるが、動機でありリスペクトがあるからこその出発点だったと考えれば、そこにはしっかりと経緯があるといえるのではないだろうか。
TM NETWORKは1984年4月21日にシングル『金曜日のライオン(Take it to the lucky)』およびアルバム『RAINBOW RAINBOW』でデビューする。
チャートを調べて知ったことですが、1986年のシングル『Come on Let's Dance』で4.4万枚売れているものの、それ以外はびっくりするほど売れていなかった。意外なことに本格的に名が知られるようになるのは、それから3年も経つ、1987年2月21日に発売されたシングル『Self Control(方舟に曳かれて)』と同時発売のアルバム『Self Control』になるだろうか。
そのあとが『Get Wild』であることを考えると、そこからの数年がいかに濃密だったかがよくわかる。
先日感想を書いた『humansystem 』もこのあとなんですもんね。(88年9月にはB'zがデビューしている)
もう一つの顔、作曲家小室哲哉
TM NETWORKのメンバーとしてのアーティストの顔に関しては前述の通り。
小室哲哉というアーティストを語る上で省くことができないのがコンポーザー、作曲家としてのもう一つの顔ではないだろうか。
1986年1月、渡辺美里に書いたシングル『My Revolution』がキャリア史上最大のヒットになり、のちに名曲と呼ばれる楽曲を継続して作曲、提供した。
同年には中山美穂に『JINGI・愛してもらいます』を提供する。
中山美穂のマネージャーをしていたバーニングプロダクションの遠藤正則氏は、もともとダンスミュージックが好きで、小室さんの作品に早いうちから注目していた人物。
遠藤氏が担当した小泉今日子や内田有紀も小室哲哉より提供を受けている。また、中山美穂、小泉今日子はアイドルながらダンス系のリミックス・アルバムを発売してる点も付け加えておく。
ちなみに遠藤氏は小室哲哉ファミリー全盛期にはTK Roomのトップとして支えたあと、97年頃からはEvery Little Thingのプロジェクトに深く関与している。その後バーニングを離れたと言われている。
大手プロダクション、レコード会社のディレクターが小室哲哉に注目していた。
ポニーキャニオンの名物プロデューサーとして知られた 故 渡邊有三さんとは作詞家の三浦徳子先生の紹介で出会っている。
ポニーキャニオンラインでは岡田有希子、堀ちえみ、CoCo、牧瀬里穂らに曲を提供。のちにtohko、未来玲可、Kiss Destinationをポニーキャニオンでやっているが、有三氏が設立したFLIGHT MASTERレーベルから出ていることから鑑みればそこには旧知の仲である二人の絆が透けて見える。
ソニーラインでは郷ひろみ、渡辺美里、松田聖子、宮沢りえ、渡辺美里などにも楽曲提供し小室氏 は若手作曲家のホープとして認知されていったのだろう。
ライジングプロダクションの平哲夫社長もいち早く注目しており、荻野目洋子で試験的に発注したあと、観月ありさでも起用し続けた。
【80年代半ばより楽曲提供を本格化】
・渡辺美里『My Revolution』『Teenage Walk』『悲しいね』
・岡田有希子『Sweet Planet』(アルバム曲)
・宮沢りえ『ドリーム ラッシュ』『NO TITLIST』『MY KICK HEART』
・観月ありさ『TOO SHY SHY BOY』
・中山美穂『JINGI・愛してもらいます』『50/50』
・堀ちえみ『愛を今信じていたい』
・松田聖子『Kimono Beat』(アルバム曲)
・田中美奈子『夢見てTRY』
小室哲哉の故郷ともいえるTM NETWORKは決して売れていなかったわけではない。
アルバム『CAROL』で60万枚を突破し、『DRESS』(54万枚)、『RHYTHM RED』(59.3万枚)、『EXPO』(64.8万枚)というように非常に安定したセールスといえる。
1991年、『EXPO』で65万枚近い大ヒットを記録していた年である。
かつてTM NETWORKのサポート・ギタリストをしていたTAK MATSUMOTOが自身のバンドB'zにおいて破竹の快進撃を見せていた。11月、松任谷由実がアルバム『DAWN PURPLE』で日本史上初となる初登場ミリオンセラーを記録した翌週に彼らもアルバム『IN THE LIFE』で初登場ミリオンセラーとなり、数字でその記録を塗り替えた。
小室さんの胸に去来したものは何か?
その後『一途な恋』『WILD HEAVEN』というヒットシングルがありながら、オリジナルアルバムを制作しなかったのは何故か?
たしかワッツインの記事では『一途な恋』をパイロット・シングルとして出したあと次々とリリースしてゆくとインタビューで答えていたはずだが。
悪くはないがそれ以上にいけないTMNのセールスに限界を感じていたのだろうか?
一番大切だった場所では成し遂げられなかったミリオン。
プロデューサーとしての活動が軌道に乗ったのを合図にするかのようにTMNは終了する。
失われた風景を胸に、とにかく彼は歩みを進めてゆくのだ。
そして時代の寵児といわれるまでの大人気音楽プロデューサーへと駆け上がってゆく。
エッセイの本項は不定期にアップしていく予定です。
第一章『WORLD GROOVE』をお待ち下さい、
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プロローグ 〜 失 わ れ た 風 景 〜
今後、三回に渡って不定期でエントリーしてゆくエッセイ『僕の見た小室哲哉』
前書きは本項を補足する意味もあります。
小室哲哉について
昭和33年(1958年)11月27日生まれ、東京都府中市出身。血液型O型。
3歳の頃からヴァイオリンに親しみ、クラシック音楽の素養を身につけた。
母親の影響でエレクトーンに触れて音楽家としての才能を開花させる。
中学、高校時代には既にオリジナル楽曲を作曲していた。
高校時代に接点があった宇都宮隆、木根尚登らとTM NETWORKを結成する。
B'zのTAK MATSUMOTOこと松本孝弘氏はインタビューにおいて『B'zの最初の頃はTMの影響を受けている』と答えており、『あの頃は(グルーヴとロックの融合)は他にやっている人はいなかった』とまで語っている。
短絡的に『B'zはTMのパクリだった』で片付けようとする者がいるが、動機でありリスペクトがあるからこその出発点だったと考えれば、そこにはしっかりと経緯があるといえるのではないだろうか。
TM NETWORKは1984年4月21日にシングル『金曜日のライオン(Take it to the lucky)』およびアルバム『RAINBOW RAINBOW』でデビューする。
チャートを調べて知ったことですが、1986年のシングル『Come on Let's Dance』で4.4万枚売れているものの、それ以外はびっくりするほど売れていなかった。意外なことに本格的に名が知られるようになるのは、それから3年も経つ、1987年2月21日に発売されたシングル『Self Control(方舟に曳かれて)』と同時発売のアルバム『Self Control』になるだろうか。
そのあとが『Get Wild』であることを考えると、そこからの数年がいかに濃密だったかがよくわかる。
先日感想を書いた『humansystem 』もこのあとなんですもんね。(88年9月にはB'zがデビューしている)
もう一つの顔、作曲家小室哲哉
TM NETWORKのメンバーとしてのアーティストの顔に関しては前述の通り。
小室哲哉というアーティストを語る上で省くことができないのがコンポーザー、作曲家としてのもう一つの顔ではないだろうか。
1986年1月、渡辺美里に書いたシングル『My Revolution』がキャリア史上最大のヒットになり、のちに名曲と呼ばれる楽曲を継続して作曲、提供した。
同年には中山美穂に『JINGI・愛してもらいます』を提供する。
中山美穂のマネージャーをしていたバーニングプロダクションの遠藤正則氏は、もともとダンスミュージックが好きで、小室さんの作品に早いうちから注目していた人物。
遠藤氏が担当した小泉今日子や内田有紀も小室哲哉より提供を受けている。また、中山美穂、小泉今日子はアイドルながらダンス系のリミックス・アルバムを発売してる点も付け加えておく。
ちなみに遠藤氏は小室哲哉ファミリー全盛期にはTK Roomのトップとして支えたあと、97年頃からはEvery Little Thingのプロジェクトに深く関与している。その後バーニングを離れたと言われている。
大手プロダクション、レコード会社のディレクターが小室哲哉に注目していた。
ポニーキャニオンの名物プロデューサーとして知られた 故 渡邊有三さんとは作詞家の三浦徳子先生の紹介で出会っている。
ポニーキャニオンラインでは岡田有希子、堀ちえみ、CoCo、牧瀬里穂らに曲を提供。のちにtohko、未来玲可、Kiss Destinationをポニーキャニオンでやっているが、有三氏が設立したFLIGHT MASTERレーベルから出ていることから鑑みればそこには旧知の仲である二人の絆が透けて見える。
ソニーラインでは郷ひろみ、渡辺美里、松田聖子、宮沢りえ、渡辺美里などにも楽曲提供し小室氏 は若手作曲家のホープとして認知されていったのだろう。
ライジングプロダクションの平哲夫社長もいち早く注目しており、荻野目洋子で試験的に発注したあと、観月ありさでも起用し続けた。
【80年代半ばより楽曲提供を本格化】
・渡辺美里『My Revolution』『Teenage Walk』『悲しいね』
・岡田有希子『Sweet Planet』(アルバム曲)
・宮沢りえ『ドリーム ラッシュ』『NO TITLIST』『MY KICK HEART』
・観月ありさ『TOO SHY SHY BOY』
・中山美穂『JINGI・愛してもらいます』『50/50』
・堀ちえみ『愛を今信じていたい』
・松田聖子『Kimono Beat』(アルバム曲)
・田中美奈子『夢見てTRY』
小室哲哉の故郷ともいえるTM NETWORKは決して売れていなかったわけではない。
アルバム『CAROL』で60万枚を突破し、『DRESS』(54万枚)、『RHYTHM RED』(59.3万枚)、『EXPO』(64.8万枚)というように非常に安定したセールスといえる。
1991年、『EXPO』で65万枚近い大ヒットを記録していた年である。
かつてTM NETWORKのサポート・ギタリストをしていたTAK MATSUMOTOが自身のバンドB'zにおいて破竹の快進撃を見せていた。11月、松任谷由実がアルバム『DAWN PURPLE』で日本史上初となる初登場ミリオンセラーを記録した翌週に彼らもアルバム『IN THE LIFE』で初登場ミリオンセラーとなり、数字でその記録を塗り替えた。
小室さんの胸に去来したものは何か?
その後『一途な恋』『WILD HEAVEN』というヒットシングルがありながら、オリジナルアルバムを制作しなかったのは何故か?
たしかワッツインの記事では『一途な恋』をパイロット・シングルとして出したあと次々とリリースしてゆくとインタビューで答えていたはずだが。
悪くはないがそれ以上にいけないTMNのセールスに限界を感じていたのだろうか?
一番大切だった場所では成し遂げられなかったミリオン。
プロデューサーとしての活動が軌道に乗ったのを合図にするかのようにTMNは終了する。
失われた風景を胸に、とにかく彼は歩みを進めてゆくのだ。
そして時代の寵児といわれるまでの大人気音楽プロデューサーへと駆け上がってゆく。
エッセイの本項は不定期にアップしていく予定です。
第一章『WORLD GROOVE』をお待ち下さい、