こんばんは。
コロナウイルスの世界的な流行で、人々の生活も街の風景も様変わりしています。
問題が解決してほしいと願いつつ、どこかで自分自身は当事者になりたくない、感染したくないとの思いが強くなりすぎて毎日に少し疲れてきました。
そんな時はiPhoneを弄って音楽を聴いてドリップしてるんですけどね。
さて、今回は逮捕され釈放された槇原敬之について振り返ってみようと思います。

槇原敬之という人
プロになる前に制作したデモテープを坂本龍一の番組に送り、認められオンエアされた。そしてもったいないほどの賞賛の言葉をもらっている。
この時の楽曲は『half』といい、歌謡曲然としたマイナーナンバーである。槇原敬之の曲でいえば『夏のスピード』や『FISH』に近いような哀愁を漂わせた質感。
坂本龍一、矢野顕子プロデュースによるコンピレーションアルバム『DEMO TAPE-1』(ミディ)に収録されているとのこと。
槇原さん自身、音楽は、おそらく相当な雑食で洋邦問わず、さまざまな音楽を聴いて吸収してきたのではないかと思われる。その片鱗はカバーアルバムでもうかがうことができる。
大江千里、松任谷由実、中島みゆき、久保田利伸、小田和正etc
大学に落ちたことを除けば挫折も苦労した時代がなく、デビューからブレイクまでが異様に早く、そこからの持続力もありました。
90年代以降の日本を代表する男性シンガーソングライターの一人といえるのではないだろうか。

マッキー時代
オーディションをきっかけに1990年、彼はデビューしました。
デビュー以降の何年かは、いわゆる『マッキー』と呼びたくなるような正統派路線を貫いた。
描かれる男性像は、どこか頼りなさげで不甲斐ない、でも純朴な人柄の良さそうな人物。
君が笑うとき君の胸が痛まないように』(1990)はアマチュアとプロの間を漂い、『君は誰と幸せなあくびをしますか。』(1991)で洗練され、『君は僕の宝物』(1992)で完全に『マッキー』ブランドは確立された。
デビュー2年目にしてシングルに続き、アルバムのほうでもミリオンを達成している。
その延長線にあり、よりポップスの濃度を高めたのが『SELF PORTRAIT』と『PHARMACY』だったのではないでしょうか。
この2作は音も曲も磨きがかかり、遊びゴコロも散見される。

集大成そして独立
1990年、1991年、1992年、1993年、1994年と途切れることなくオリジナル・アルバムを発表してきた槇原敬之さん。セールスも安定していました。
1995年は前年からの長期ツアーもあり、その後ポリープが見つかるなどしたため、アルバムは発売されることはなかった。
その間、ワーナーミュージックと共同出資で個人事務所および同名の個人レーベル『RiverWay』を立ち上げている。(のちに完全に槇原敬之個人の会社エイノートになる)
そして1996年になると、自分が聴きたいと思うような海外のヒットチャートをアルバムで表現したという『THE DIGITAL COWBOY』を発表。カバー1曲を含む全13曲入りの全編英語によるオリジナルアルバム。
さらに翌月にはポップス槇原敬之の集大成ともいえるオリジナル・アルバムわ『UNDERWEAR』を発表。シングル1曲、カップリング1曲で残り10曲は全て新曲というファンには嬉しい作品となった。
新曲が多いだけではなく、内容が良かったというのも大きい。
収録に漏れた『まだ生きてるよ』はシングルとして発売されている。

一人歩きと逮捕
デビュー以来、拠点としてきたワーナーミュージックを離れたのは1997年。
もともとソニー・ミュージックの新人開発セクションSDオーディションに応募するなど、ソニーのアーティストになりたかったといわれる槇原さん。
ワーナーミュージックで実績を重ね、遂にソニー・ミュージックのSony Recordsへの移籍を決めた。
Sony Recordsは男性シンガーソングライターを得意とする花形レーベルでしたから、槇原さんにはぴったりのチョイスだったと思います。ディレクターが強く個性も強いEpic/Sony Recordsはちょっと槇原さんには合わないかと。
移籍第一弾アルバム『Such a Lovely Place』はそれまでの槇原敬之らしさを維持しながらも、ピコピコしたサウンドは息を潜めており、よりスタンダードな質感に変化している。
第二弾となる『Cicada』では前作とは比較にならない多彩な音選びとなっている。
このあと彼は違法薬物に手を出した罪を問われ、逮捕される。

奇跡の復活
逮捕のニュースは日本中に駆け巡り、ワイドショーやスポーツ新聞、週刊誌のネタとして取り上げられた。どちらかといえば好青年だと思われていた槇原敬之のイメージはクスリ、同性愛というイメージに塗り替えられてしまった。
槇原敬之本人も、CDの回収騒ぎ、レーベル契約解除、アリーナツアーの中止と多くの問題が生じた。
2000年全曲新曲によるアルバム『太陽』を発表。
のちに『ライフソング』と呼ばれる生き方を説いた内容の歌詞の楽曲が増えてゆく。
シングル曲なしでの発表ではあったし、前作の半分の売り上げだったけれども20万枚に迫る売上を記録。
日常にスポットをあてた『Home Sweet Home』、ライフソングにポップさを加えた『本日ハ晴天ナリ』を古巣のワーナーに残し、東芝EMIに移籍する。
アイドルグループSmapにアルバム曲として『Wow』と『世界に一つだけの花』を提出。『Wow』は採用にすらならず、出版すら獲ってもらえなかったので自身で歌唱し、のちにシングルになっている。
『世界に一つだけの花』はSmapのアルバムに収録され世に出た。その後、草なぎ剛主演ドラマの主題歌になるにあたり、シングルとして新バージョンで発売されると、たちまち大ヒットとなった。
このことが契機となり、槇原敬之は再評価され、同曲のセルフカバーを収録した『Explorer』は50万枚を超えるヒットとなり、古巣のワーナーが出したシングルコレクションもヒットする。
また、故郷である大阪を描いたコンセプトアルバム『LIFE IN DOWNTOWN』を発表。

二人三脚
1999年に共に逮捕されたO氏が事務所の社長として仕切るようになり、東芝EMI(現ユニバーサルミュージック)との契約が終了すると、レーベルをエイベックスのJ-moreに移籍する。
この時のJ-moreレーベルはソニー・ミュージック出身の稲垣博司氏がレーベルトップだった。
メインレーベルのavex traxやRyhthm Zoneといったエイベックス本流とは一線を画した邦楽レーベルである。
エイベックスは他のレコード会社よりアーティスト側は有利な契約をしてくれると言われていて、時に大物が移籍してくることがあるのだが、槇原さんの場合も原盤権を主張したと思われる。
そう、この時から槇原さんの事務所ワーズアンドミュージックが原盤権を有している。
この時期のアルバム『悲しみなんて何の意味もないと思っていた』、『Personal Soundtracks』『不安の中に手を突っ込んで』いずれもなかなかの完成度でした。
数多のレーベル移籍を経て、ようやく足場を固めることができたと言えるかもしれません。
二人三脚、まさに二人は歩き出しました。

30周年と再逮捕
前述の通り自社の原盤制作、自社での楽曲管理の体制が整ったワーズアンドミュージック社はレーベルBuppu Laeelを設立し、発売も自社で行うことになる。
インディーズ扱いになったものの、流通(レコード店やイーコマースサイトへの販売)はソニー・ミュージックに委託しているため、これまでと変わらず手に入れることができる。
制作費は全て自分で負担しなければならないものの、事実上メジャーと変わらない状態ですね。
CDの盤もソニーのものを使っているので製造も委託してるかもしれません。
自主レーベルになってから出したアルバムはどれも良いです。

そして、今年の2月に逮捕されました。
デビュー30周年の今年はメモリアルな一年になるはずでした。
カバーアルバムのベスト、提供曲のセルフカバー集、夏には初となるオールタイムベストアルバムが計画されていました。
提供曲のセルフカバー集は発売延期未定となり、ソニーのイーコマースサイトでは返金対応が始まっている。オールタイムベストアルバムも空中分解となりました。
計画されていた大規模なツアーも不透明な状況。

ふりかえると、そうそうたる経歴と実績がある彼の音楽人生。
積み上げてきたものは一瞬で壊れてしまった。
あの時は30歳ということで更生の望みはあった。実際実力で運を引き寄せ復活を果たした。
今回は50歳。
茨の道が待ってるに違いない。
彼が歌ってきた詩(ことば)は空しく残り続ける。